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ウィキペディア「常磐津和佐太夫」2011年12月3日10:38 のN-nobuによる投稿は、このWebページの作成者によるものです。

■初代常磐津和佐太夫

(後名:岸澤和佐太夫、菊菱和佐太夫、四代目常磐津和歌太夫、若太夫、若翁) 文化13〜明治32(1816・1899)。四谷天王坂の仕立屋の息。名は慶次郎。四谷大番町、改代町(明治8午当時)などに住んだ。新宮の文字佐喜に手ほどきを受け、のち芝露月町の三代目和歌太夫(若太夫)の弟子となる。両師の名をとって、和佐太夫と称したと伝える。

 

[初舞台から幕末まで]

天保3年(1832)、若手の太夫がタテに抜擢された江戸堺町土佐座に出勤。同5年市村座で師の若太夫がタテを語った「荵関娘商人」で、江戸三座に初出勤した。その後、家元小文字太夫・若太夫のナガレで江戸三座へしばしば出勤を続けた。同10年中村座「花翫暦色所八景」で初めて3枚目の格付けとなる。弘化3年(1846)6月結城座の西川巳之助・芳次郎の舞踊でタテを勤め、同年以降、文字太夫のワキを語ることが多くなった。嘉永2年(1849)の歳旦曲「千歳寿」の連名頂位は第9位。

文久元年(1861)に常磐津と岸澤が分離した歳、岸澤派に所属することになった。岸澤和佐太夫を名乗り、家元岸澤古式部のワキあるいはタテ語りを勤めた。明治初年頃の動向は明らかでない。なお、岸澤三登勢太夫が明治6年頃に没した後、煩悶して3代目岸澤仲助と共に寄席に出て名声を謳われたとも伝えられる。

番付

万延2年1月(1861年)「御国松曽我中村」初代和佐太夫出演番付

[菊菱派の独立期]

初代和佐太夫の師で、天保期の常磐津界の実力者であった、三代目常磐津若太夫は、常磐津家元派の傘下において、その紋にちなみ菊菱と称する門閥を形成した。天保10年(1839)の若太夫の死没により霧散していた菊菱一派は、明治7年(1874)、初代和佐太夫によって独立復興を果たすことになった。

歌舞伎番付の調査によると、明治7年(1874)6月から翌8年1月まで、「菊菱和佐太夫」の名前で、東京・喜昇座(現在の明治座の前身)のタテ語りとして専属的に出勤したことがわかる。

「日本系譜綜覧」(日置昌一編、昭和11年、改造社)の「浄瑠璃系図」には、常磐津豊後大掾(四世文字太夫、家元)の門弟として、「菊菱和佐太夫」の名が記されている。

浄瑠璃系図

明治7年 常磐津豊後大掾(四世文字太夫)の門弟として菊菱和佐太夫の名が帰されている「日本系譜綜覧」昭和11年 改造社

ただし、次に記すように、明治8年には常磐津家元派に復帰したとみられるので、菊菱派として独立しての芝居出勤は短期間に終わったようである。

[常磐津派に復帰後]

明治8年(1875)1月以降に編纂され10月に刊行された「諸芸人名録」には、菊菱派の項目は存在せず、常磐津の「上等之部」の第7位に「常磐津和佐太夫」の名が出ている。また、同8年8月22日に「常磐津和歌太夫」を襲名した師範状が存在したと伝えられる。これらによれば、同年2月頃に常磐津派に復帰し、3月中に改名したとみられる。

その後しぱらく芝居出勤は確認できないが、65歳になった明治13年(1880)3月新富座「六歌仙狂画墨塗」に「常磐津若太夫」の名で、小文字太夫(のちの林中)のワキで出勤して以後、たびたび芝居に出勤している。

同13年7月には、菊菱派への愛着を振り返りながら常磐津家元派の繁栄を折念した曲「翁草千代寿」の正本を、小文字太夫(のちの林中)と合同で刊行している。

正本

明治13年 四世若太夫(初代和佐太夫)と小文字太夫の合作
常磐津家元派に復帰した四世若太夫(初代和佐太夫)が、自身の歳(65歳)と菊菱派への愛着を振り返りながら、常磐津家元派の繁栄を祈念し、家元小文字太夫との共同によって刊行したとみられる正本。(早稲田大学所蔵)

これらのことから、明治12年に常磐津家元に迎えられた小文字太夫(林中)のよきサポートを果たした人物であったことが伺われる。

明治32年1月22月死没。享年84歳。妙調院弦道良通居士。市ケ谷見附外桐雲寺へ葬る(没年月日は5代目和歌太夫の調査)。

【初代和佐太夫への評価】

「細い音なりしも美音なりし。見台に向かった姿が、目をつぶって居眠りをしているようでありしとのこと」(町田嘉章ノート)

「初めは到底常磐津語りとして身を立つることのできなかった程不器用の人であったが、専心努力の結果遂に師を凌駕する程の技量を有するに至り八十四才の高齢まで芸道に終始して止む事なく斯界にその名を謳われた」(『現代音楽大観』l927. 日本名鑑協会)

 



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